「草とりをせないかん…」
「お父さん、そんな身体で何言ってるの? 草とりなんてしなくてもいいでしょ!」
こんな会話、診察室で時折出会う。在宅医療の現場でも、よくある光景だ。
医療従事者 ―― とくにドクターは、どうしても “病気” を診ている。そんな身体の状態で「草とり」にこだわるなんて考えられない。だって、もっと他に優先すべきことがあるだろうと思う。「草とり」なんて。だから、ついご家族の意見に同調してしまう。
「●●さん、今は体調も思わしくないし、草とりを含む野外活動は控えておきましょう。おうちの中でゆっくり過ごしてくださいね。くれぐれも無理はしないように。日中は暑いし、草とりなんて止めておきましょう。少々草が生えても大丈夫ですよ(笑)」
……なんて。
ふと、立ち止まってみる。
なんで、こんなに「草とり」をしたいんだろう。
体調だっていいわけじゃないし、暑いのに、それでも「草とり」をしたい――
「草とり」をしたい。その言葉、行為の奥にある●●さんの “想い” はいかに。訪問診療を始めてから、そんなことを考えるようになった。
病気で身体が思いどおりにいかなくなるなかで、でも、草を抜くことで “日常を保つ” 感覚を味わいたいのかもしれない。「まだできる」という安心感かもしれない。あるいは、草を抜くことで “生活者としての役割” を確かめているのかもしれない。
もしくは、土や緑、外の空気、四季の移ろいに触れながら、自然とのつながりを感じていたいのかもしれない。
達成感もあるのだろう。生い茂った雑草を抜ききって、きれいになった庭を見る。それは、たしかに気持ちのよいことだ。
あるいは、草が伸び放題の庭を見ていると、「自分の生活が荒れていく」ように感じるのかもしれない。そんな状態では “死にきれない” ―― そんな想いも、あるのかもしれない。
何か思い出があるのかもしれない。草とりしながら聴くラジオが好きだったとか、草とりという行為そのものより、その時間や習慣が大切だったのかもしれない。
「草とり」なんてって思ってしまうと、そこで会話は終わってしまう。
でも、「えーっ この暑いなか草とりするんですね!すごいなぁ… きれいになると気持ちいいですもんねぇ やっぱり達成感がある感じですか? あ、ラジオとか聴きながらやるんです?」なんて、こんな感じで少し肯定的に受け止めてみて、ちょっとだけ掘り下げてみたら、「草とり」をきっかけに、その奥にある患者さんの “想い” が見えてくるかもしれない。それによって、僕たちの介入も、少し変わってくるかもしれない。治療方針が変わるわけではないし、予後を延ばすわけでもないと思う。でも、その “想い” に触れられたら、たとえ身体的に草とりができない状態だとしても、その想いに沿った “草とりに代わる何か” を提案できるかもしれない。
忙しいと、心を亡くしてしまう。だから、「草とり」の向こう側までたどり着けないこともある。それでもできるだけ、向こう側の景色にたどり着けたらいいなと思う。
そういえば――
勤務医時代、僕らから見ればとても食べられるような状態じゃない患者さんに、介護者の制止を振り切って、なんとか食べさせようとするお父さんがいた。“食べさせたい” お父さんの想い。もっと寄り添えたらよかった。その “想い” を分かってあげられる人になれたらよかった。
「草とり」の向こう側へ


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