視点の変化

在宅の現場から

 

在宅医療を始めて、もうすぐちょうど一年になる。 

 

それまで18年間、総合病院に勤めていた僕は、臨床医としての視点や、患者さんの診かたの変化を感じている。

 

医療関係者じゃない方からすると、「え?」と思われることのひとつに、聴診がある。

実は病院勤務、とくに外来では、案外聴診をしないことも多い。呼吸器内科医ですらそうだ。むしろ呼吸器内科では、レントゲンやCTを比較的容易に撮影でき、画像検査の精度も高いため、聴診の必要性が相対的に低くなっているのが実情である。

それでも僕は、すぐに画像に頼るのではなく、まず聴診から疾患を疑い、そのうえで検査をオーダーする——その診療の“美しさ”を大切にしたいと思ってきた。意識して聴診を続けていると、「しっかり聴診器を当ててもらったのは久しぶりだ」「いつも聴診してくれてありがとう」と、特に異常所見がなくても感謝されることがあった。

訪問診療の現場では、ほぼ必ず聴診をする。多くの場合、大きな異常は見つからない。それでも、これまで指摘されていなかった心雑音に気づいたり、呼吸音の左右差に違和感を覚えたり、背側でラ音を聴取したりすることもある。とはいえ、それによって大きく診療方針が変わることは決して多くない。聴診は、ある意味コミュニケーションの一手段になっていることも多いのだが、それもまた大切な役割だと感じている。

 

そして、ベッドで横になっている患者さんにも、椅子に座っている患者さんにも、必ず下腿に触れて浮腫の有無を確認し、膝の痛みを尋ね、爪の変化にも目を向ける。口腔内を診ることもあるし、寝たきりの患者さんでは、ほぼ必ず背部や殿部を確認し、褥瘡や皮膚トラブルがないかをチェックする。

  

さらに、ほとんどすべての患者さんに対して、食事・排泄・睡眠の状況、そして痛みや痒みについて尋ねる。そこから話が自然に広がることも多い。

 

そうこうするうちに、部屋に飾られた家族写真に目がとまり、思い出話を聞いてみたり、トイレまでの動線を確認したり、台所の様子から日々の食生活を想像したりする。最後に入浴したのはいつだろう——そんなことまで思いを巡らせる。

 

雑談のなかで、ちょっとした冗談を言ってみて、クスッと笑ってもらえたときは、心の中でそっとガッツポーズをしている。

 

診療を終え、「また来ますね」と声をかけながら手に触れたとき、患者さんがふっと笑顔を見せてくれる——そんな瞬間もまた嬉しかったりする。

 

病院は、基本的に患者さんが自ら訪れ、医師や看護師に相談する場である。医師は訴えを聞き、診察し、検査を行い、見立てを立てる。一方、在宅医療では、こちらが患者さんの生活の場にお邪魔する立場だ。まさに「診る」というより、「伺う」感覚に近い。

 

先日、新たに訪問を始めた患者さんのご家族から、こんな話を聞いた。

 

その患者さんが、ある病院に入院していた際、入院時に急変時の対応について確認を受けたそうだ。気管挿管や心臓マッサージなどの救命処置や延命治療などに対する意向の確認で、最近は、どこの病院でも入院時に確認することが多い。

ところが、そのスタッフは、患者さんの状態を見るなり、「気管挿管や心臓マッサージなどの救命処置はされませんよね」と、当然そうであるかのように事務的に言い放ったという。ご家族は強い違和感を覚え、憤りを感じたとのことだった。

大切な家族に対して、そのような言い方をされたら、心穏やかでいられないのは当然だと思う。たとえ医学的に妥当と思われる選択であったとしても、言葉のかけ方ひとつで受け取り方は大きく変わる。

 

一方で、18年間病院に勤めていた身としては、病院側の事情も理解できなくはない。入院が必要な時点で状態は不安定であり、いつ急変してもおかしくない。そのときに混乱しないよう、あらかじめ方針を確認しておきたい。そして多忙な現場では、できるだけ早く結論を得たい——そうした事情もある。

 

それでも、この話題が非常にデリケートであることに変わりはない。僕自身、病院勤務時代は患者さんやご家族の表情を見ながら、言葉を選び、時間をかけて説明していた。それでも方針が決まらず、もどかしさを感じることもあった。ときには、急変時の方針が明確でないことを理由に指摘を受けることもあった。「救命処置はしませんよね」と言い切れてしまえば楽なのかもしれない——そんな思いが頭をよぎったこともある。

 

そうした経験を経て、いま在宅医療に身を置いて感じるのは、入院時に突然その話をするのではなく、日々の診療のなかで少しずつ積み重ねていくことの大切さである。患者さんやご家族との会話、生活環境、価値観——それらを丁寧にくみ取りながら、その延長線上に救命処置の話が自然に位置づけられる。そうしたプロセスこそが重要だと思うし、それを実施できる訪問診療の現場が理想的だと思う。

 

そして、ふと気づく。

病院時代、僕は「患者さんのことを考えているつもり」だった。しかし実際には、その多くが病気や病態に関する理解であり、生活や価値観への理解は、思っていたほど深くなかったのではないかと。

患者さんの生活の場に出向いてみて、見えてくること、そして、感じることがある。

 

今回のケースでは、確かに言葉の選び方に問題はあったと思う。しかしそれ以前に、入院よりも前の段階で、そうしたことを一緒に考える機会がなかったことも、大きな要因のひとつではないだろうか。

 

近年、ACP(Advance Care Planning)、いわゆる「人生会議」という言葉が広く知られるようになった。

しかし現場では、それが形式的なものになっていると感じる場面にも出会う。

本来ACPは、患者さんやご家族との対話を重ね、その人が大切にしているものを共有し、どのように生き、どのように最期を迎えたいかを共に考えていく過程である。それがときに、「ACPはとりましたか」という確認事項になり、救命処置を行うかどうかのチェック項目のように扱われてしまっている現実もある。

そのたびに、どこかもどかしい気持ちになる。

とはいえ、在宅側にも現実的な制約はある。一人の患者さんに時間をかけすぎれば、他の患者さんの診療に影響が出る。「あの家族写真の話を聞いてみよう」と思いながらも、次の訪問が迫り、また今度にしようと先送りになることもある。

  

理想と現実のあいだで揺れながら、まだ明確な解決策は見いだせていない。

それでも、この一年で自分の視点が確実に変わったことは実感している。

その変化を大切にしながら、患者さんやご家族が本当に大切にしているものを、少しでも深く受け取れる医師でありたいと思う。急変時の対応を決めることも大事だけど、それも含めて在宅療養そのものが、より豊かで、その人らしい素敵なものにものになるように。

その過程に立ち会えること、在宅医療に携われていることを幸せに思う。

この思いを忘れずに、在宅医2年目のスタートを切りたい。 

  

  

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